そーゆーとこツボなのさ

終日もう君に夢中

ハザカイキにあったもの

ハザカイキを観て感じたことをまとめました。

ネタバレを含みますので、ご注意ください。

 

 

1 THEATER MILANO-Zaにて

 

ハザカイキで描かれたエンディングは、とても理想的なものでした。

 

人と人が許し合い、男と女が寄り添い合い、激しく変わる時代の中で細々とでも生きていく。
1人でも気を許せる人がいたら、それでいい。

 

雨の中で笑い合いながらプロポーズする菅原(丸山隆平)と里美(さとうほなみ)の姿を前に、私はミラノ座の構造について思いを馳せていました。

 

前にミラノ座で観た少女都市もめっちゃビー玉降ってたよな。
ハザカイキもすでに一幕終わりでマーライオンのごとく大放水してたし、まためっちゃ雨降ってるし、ミラノ座には何かを降らせるのに適した、あるいは降らせたものを素早く撤収するのに適した秘密の構造があるのだろうか?

 

つまり簡単に言えば、全然集中してませんでした。

私の意識はどこか上の空、遠い遠い世界のキレイな御伽噺を見せられて、「ふーん、お幸せに」みたいな。

 

どこか遠い国。どこか別の場所。自分の外側で展開される物語。いや、むしろ外側にいるのは自分か。

 

そう、私がハザカイキに感じたのは、疎外感でした。

 

私はパラダイスに疎外感を抱くことはありませんでした。
むしろ物語の中にのめり込んで、登場人物たちについて深く考察し、さらに自分の人生について振り返って洞察を重ねる。


私はそこそこ普通の人間なので、恐らく境遇としてはパラダイスよりもハザカイキの方が圧倒的に近いはずです。

普通の家庭に生まれて、普通の両親に普通に育てられて、普通に学校にも行ったし、普通に彼女もできたし。普通に大学出て、普通に就職して。

っていうのはパラダイスの梶のセリフの受け売りですが、私もきっとそうです。

 

でも、ここで何度も出てくる"普通"ってなんなんでしょう?

 

ハザカイキに出てくる登場人物たちは、みんな"普通"でした。
芸能人でも芸能記者でも特別な人間ではなく、"普通の人間"である。そういう意図が感じられました。
そしてその"普通の人間"たちには、等しく救いが与えられました。

 

普通の人間を描くって、一番その人の価値観が表れるような気がします。
そしてハザカイキの中で"普通"とされる枠の中に私はいませんでした。

 

ハザカイキの中に出てくる人間たちは、みな聡明で物分かりが良く、何より自立していて、他者に依存しない。他者との距離の取り方が上手すぎる。

 

そう、ハザカイキで"普通の人間"が持っていたのは、

  • 適切な他者との距離感
  • 自分を表現し、他者を理解する聡明さ

この2つだと思います。

 

2 他者との距離

 

2-1 正しい距離の取り方

 

ハザカイキに出てきた"普通の人間"が持っていたのは、少なくとも私よりはかなり優れた他者との距離感でした。

  • 告白の後も親友として付き合いを続ける菅原と伸二
  • 香を突き飛ばしてしまい、怪我をさせたことを謝る勇
  • 娘から帰ってと言われて何も言わずに帰っていく父親・浩二
  • 菅原と喧嘩した後、実家に帰って冷静さを取り戻す里美
  • 一時は欠勤していたが、戻ってきて浩二へのパワハラの訴えを取り下げるマネージャー・田村

私から言わせれば、彼らは距離の取り方の天才でした。
少なくとも"普通"ではありません。

 

唯一距離の取り方が崩れかけていたのは、誹謗中傷で追い込まれた菅原が、自分に対して好意を抱く伸二に縋り付くシーンです。

 

自分に対して恋愛感情を抱く相手の太ももと背中にしがみつき、胸に耳を当て、「心臓の音がする」とのたまう菅原は、明らかに距離を間違えています。
そして伸二は思わず菅原の唇と首筋にキスをし、手を絡め、シャツの中に手を入れようとします

距離の取り方を間違えた菅原は、親友からしっぺ返しを喰らうわけですね。

しかしそこでも菅原は、そっと伸二を引き剥がし、伸二も正気に戻って菅原から距離を取り合い、お互いに謝罪します。

 

非常に見事な間合いの取り方でした。

 

人間は、他人と関わらずに生きていくことはできません。つまり、人間が生きていく上で注意を払うべきなのは、他者と離れすぎることではなく、他者と近づきすぎることなのです。

 

2-2 近すぎる距離が起こす問題

 

では、他者と近づきすぎると具体的にどのような問題が起こるのでしょうか?

心理的な距離が近すぎること、肉体的な距離が近すぎること、どちらも良くない結果をもたらします。

 

まず、近すぎる心理的な距離は、依存や支配に繋がります。


私はかつてアイドルに、というかヒナちゃんに依存していました。
生活の全ての基準が彼にあり、最も優先すべき事項は彼であり、彼が傷つけられることは私が傷つけられることよりも重大な問題である。
こういう感覚がありました。

※ちなみにこのブログのほとんどの記事は、私がヒナちゃんに依存していた頃のものです。よければご参考に(笑)。

当時の私のように、自分の判断基準を自分が望んで他人に預けることは、依存と言えるでしょう。また、それを他人に強制する場合は、支配になります。

 

同じく、近すぎる肉体的な距離も、健全なものではありません。
もし相手の同意なく相手に接触すれば、性的な行為や暴力として見なされるでしょう。 様々な舞台で、他人と近づきすぎた人間たちの話が出てきます。

 

パラダイスで登場人物たちの間にあったのは依存と暴力でした。

  • 教育と称して暴力を振るう梶
  • 怒りに任せて若林を殴る梶
  • 梶のために2000万円を払う辺見
  • 梶のために小指を切り落とす真鍋
  • 梶に自分の愛人を抱かせる辺見

特に主要キャラ3人、丸山さん演じる梶、毎熊克哉さん演じる真鍋、八嶋智人さん演じる辺見の間にあった、恋愛にも似た三角関係は、距離の取り方を知らない人間たちの物語だったと思います。

距離の取り方を知らない3人が近づきすぎて、ぶつかって、コケそうになったらしがみついて、お互いを巻き込みながら崩壊していく。

 

マシーン日記においても、閉鎖的な町工場の中にあったのは、依存と支配、性愛と暴力でした。

  • サチコへのミチオの強姦
  • ミチオを監禁するアキトシ
  • 鎖を切ろうとしないミチオ
  • サチコに結婚を強制するアキトシと、逃げないサチコ
  • 他人の情事を盗聴するミチオ
  • ミチオに服従を誓うケイコ
  • 複数の女性と性行為をするミチオ

4人だけの狭い世界で、小さな町で、彼らは他人との境界線を失い、ドロドロに溶け合っていました。

 

2-3 他者から避難するために

 

では、なぜハザカイキでは、人間同士の接触事故が起こらなかったのでしょうか?
あるいは、起こりそうになっても避けられたのでしょうか?

 

ごめんなさい。
こちらこそごめんなさい。

 

なぜこのシンプルなやりとりだけで、お互いを許し合うことができたのでしょうか?

 

それは、彼らが距離を取る術を身につけていたからだと思います。

 

距離を取るとは具体的にはどういうことでしょうか?

それは意図しない接触が発生した時に、別の場所に移動するということです。
つまり逃げる場所があるということです。
逃げる先は里美のように実家であったり、菅原のように親友のところかもしれません。

一方で、梶には片道40分ほどで帰れる実家がありましたが、最後までそこに泊まることはありませんでした。
梶にとって実家は、居場所にも逃亡場所にもならなかったのでしょう。

 

しかし、何より重要なのは、安全で安定した自分だけの居場所があることだと思います。

 

2-4 ボートの話

 

2-4-1 世間を渡る

 

人生、社会、世間といったものは頻繁に海や川に例えられます。

人間は、荒れたり静まったりを繰り返す海の上でボートを漕いで生きています。
ここにおけるボートというのが、先ほど述べた自分だけの居場所です。

不安定な海上で自立する、文字通り自分の足で立つためには、このボートが頑丈で安定していることが必須条件なのです。

 

土台となるボートは、最初から存在するわけではありません。

一部の動物が生まれた瞬間から歩き出すのに対し、人間の赤ん坊は1人で生きていくことができるような作りにはなっていません。
つまり、親という他人のボートの上に無防備に誕生するわけです。
もちろんその状態で保護されることなく投げ出されれば、あっさりと死にます。

 

人間の子供は、自分で生きていくに至るまで、かなり短く見積もっても15年ほどは要します。

それまでの間に、安全な住環境、十分な愛情、適度なスキンシップ、義務教育、高等教育、さまざまなものを与えられながら、徐々に自分の空間を確立していきます。
周りの大人が子供の成長に合わせて一定の距離を取ってくれることにより、子供は安全な自分だけのボートを作り上げることができます。

 

このように様々な材料を元に、ボートができていくわけですが、材料が不足するとその部分に穴が空きます。 

 

2-4-2 家族による穴

 

ボートに穴が空く要因は様々ありますが、影響範囲が大きく、よく取り沙汰されるのは、親や家庭の問題です。

 

過度な心理的干渉は最近では「毒親」として注目されることが増えました。
過度な肉体的干渉は性的虐待となり、そこに勢いが伴えば暴力にもなります。
逆にボートがまだ出来上がっていない内に適切な干渉や保護が行われない場合は、ネグレクトとなります。

 

言葉にしてみると結構難しくないですか?

付かず離れず、ちょうど良い距離を保ち続ける。

 

そう、これってそもそも親となる大人が適切な距離の取り方を分かっていることが前提なんです。
まさにハザカイキの橋本香の母である智子、父である浩二は、恋人の逮捕にショックを受ける香に寄り添いつつも、時には一人の時間を尊重します。
まさに距離をわきまえた人間でした。

 

虐待が連鎖することはある程度知られた事象ではないでしょうか?

マシーン日記では、ミチオとアキトシの父親は、アキトシをプレハブ小屋に監禁して"躾"をしていました。
そしてアキトシは同じようにミチオを監禁しました。

 

虐待を受けた子供は他人との距離の取り方を知らないことが多く、知らないことを自分の子供、あるいは周囲に教えることはできないのです。

 

2-4-3 障害、社会による穴

しかし、いくら家族から適切な愛情を与えられても、自分自身に欠けたものがあれば、どうにもならないでしょう。

 

パラダイスでは、梶がこう語ります。

俺、服役を体験した元政治家の獄中体験記を読む機会があってね。そんでその中に、身体障害者の受刑者仲間から『俺たちは生まれた時から罰を受けている』って言われるシーンがあって、俺それ読んだ時、目からうろこっていうか。

いや、俺には身体障害者の苦悩とか分からねえよ?でも、なんとなく、生まれた時から罰を受けているって感覚は分かる気がする。

梶自身が何か障害を抱えているわけではありませんが、ボートに穴が空いている感覚を「罰を受けている」として表現したのではないでしょうか?

 

心身に障害があるということは、常に誰かに頼らざるを得ない状況に追い込まれます。
それは自由や自立を許されないという感覚なのかもしれません。

また、マシーン日記でも、1cmのペニスを持つケイコや、6本の指を持つアキトシが登場します。
ケイコはそれによりオリンピック出場を阻まれ、アキトシは鳥人間コンテストに出場した際に、出番をカットされました。

 

社会的な扱いも影響することがあります。

大方の日本人にとっては馴染みのない問題ですが、それは国籍であったり、人種であったり、性的指向であったりします。
冷戦で分断された街・東ドイツで生まれ、自由の国・アメリカを夢見たヘドウィグは、まさにその1人でしょう。

 

つまり、

自分では選べない様々な要因で、ボートに穴が空いたまま、世間という海にあてもなく放り出されることがあるわけです。

 

2-4-4 依存と支配の発生

 

では、海に放り出された後のことを考えてみましょう。

 

ボートが不安定で自立できない場合に、他者との交流が依存的・支配的になるのはなぜでしょうか? 

 

穴の空いた不安定なボートに立っているところを想像してください。

 

そこに別のボートに乗った人間がやってきます。
握手やハイタッチをできると思いますか?

恐らくかなり難しいと思います。

手を伸ばして一時的に接触し、再び離れる。
この間の重心の移動で、ボートが転覆するかもしれません。
どちらかというと、相手の身体やボートにしっかりと掴まる方が現実的でしょう。

 

つまり、不安定なボートは他人との軽い接触・適度で健全な接触を行うのに適した場所ではないのです。

 

さて、相手に掴まり、しがみつくことで一時的にはボートが安定しました。
何もない海の上よりは、掴まるところができて、さっきよりも安定した気がします。
何より実際に安定していなかったとしても、何かに掴まっていることによる安心感があります。

しかし、まだボートに穴は空いています。
途中までは行き先が一緒だったので良かったのですが、相手は別の方向に行きたいと言っています。

今、相手を掴んでいる手を離すことはできるでしょうか?
強く掴んでいればいるほど、離した反動で、ボートが大きく揺れることは予想されます。

この状況をなんとかする方法は2つあります。

 

手段① 依存

相手の行きたい方向に合わせることにしました

 

手段② 支配

自分の行きたい方向に相手を合わせさせることにしました

 

依存や支配は、所詮は対症療法かもしれません。
それでも土台が不安定な人間にとっては、現実的な解決策なのです。

これが穴が空いたボートに乗った人間からの視点です。

 

しかし、もし自分が安定したボートに乗った状態で、そんな相手にしがみつかれたらどう思うでしょうか?
相手を強く振り払っても、自分のボートは少し揺れるくらいで沈む気配はありません。
もしその相手に対してとてつもなく大きな好意を持っているのであれば、しがみつかれることも許容できるかもしれませんが、基本的には逃げる一択だと思います。

しがみついてきた相手が勝手に転覆するだけなら、罪悪感を抱くくらいで済みますが、それも気持ちの良いものではないでしょう。
運が悪ければ、溺れかけた相手が恨みを持って自分のボートを破壊しようと襲ってくるかもしれません。

 

そのため、このような依存および支配の関係の多くは、ボートに穴の空いた人間同士の間で発生します。

 

パラダイスでは、辺見は梶に依存し、支配しようとしました。
真鍋と梶の間にはお互いに依存関係がありました。

マシーン日記において、アキトシはミチオとサチコを支配していました。
一方で、ミチオはアキトシに依存していたのかもしれません。
そこにミチオに服従を誓うケイコが登場します。

ヘドウィグもまた、イツハクに依存すると同時に支配しようとし、その裏には母親からの支配がありました。

 

彼らは自分に欠けたものを、必死に依存したり支配したりすることで、他人を使って補おうとしていたのかもしれません。

 

2-4-5 謝罪と許しの前提条件

 

依存や支配という形で、お互いにしがみつけば一時的には安定しますが、海は常にうねっています。
人も時代も常に変化します。
それだけ至近距離にいれば、ぶつかることは避けられません。
ずっと相手に合わせ続ける、あるいは合わせさせ続けることも難しいと思います。

 

どちらかが我慢できず、振り払いました。

振り払われた反動で、お互いのボートは転覆間近です。
ちなみに海に落ちれば人生は終わりです。
ただでさえ穴の空いたボートは、振り払った時の横揺れでさらに水浸しです。

そんな状況を作った相手を許せるでしょうか?
お前のせいで、お前のためを思ってやったのに、そんな恨み言を投げたくなりそうです。

 

もしこれがお互いに安定したボートに乗っていた場合は別です。

勇が香を突き飛ばしたように、伸二が菅原にキスしたように、里美が菅原の仕事を蔑んだように、一時的に接触事故が起こることはあります。

ボートは多少ぐらつき、横から水も入ってきたかもしれませんが、穴は空いていません。
底が水浸しでも、根気よくバケツで掬って雑巾で拭き取れば、元通りの安定したボートに戻ります。
揺れが収まり、しっかりと乾いたボートの上でゆっくりと考え直せば、相手を許す気持ちも湧き起こってくるかもしれません。

ごめんなさい。 こちらこそごめんなさい。

ハザカイキで繰り返されたこんなやりとりをして、再び元の距離感に戻り、お互いの合意の元で同じ方向を目指すことも可能でしょう。

 

つまり恐らく、どんな聖人君主であっても、「許す」という行為は、痛みを感じている最中、船が揺れている最中にはできないのです。

許す気になれないと言った方が適切かもしれません。

そんな中で、すぐに相手を許すことができる人は、それだけ痛みを早く治めることが上手いのでしょう。

そういう意味で、揺れに強い安定した穴のないボートというのは、人を許す土台となるのです。

 

2-5 孤独という救い

では、自分のボートを作り上げることのできなかった人たちに、救いはないのでしょうか?

ヘドウィグ・アンド・アングリーインチは、そこに対する一つの救いの物語だったと思います。

 

ヘドウィグは、冷戦期の東ドイツで生まれ、父親からは性的虐待を受け、母親からは愛情を受けず、ルーサーに恋をして性転換手術を受けて渡米します。

まさにヘドウィグは穴だらけのボートに乗った人間なのです。

母親から冷たい扱いを受ける一方で、20代を過ぎても母親と2人で一つのベッドで寝る生活は、遠すぎる心理的距離と近すぎる肉体的距離、適切な距離が失われた環境の象徴とも言えるでしょう。

ヘドウィグは母親からは聞かされたカタワレの話を信じて、ルーサーやトミー、イツハク、そして多数の男たちとの性的接触で自分に欠けたものを埋めようとします。
トミーに依存し、イツハクを支配しようとするヘドウィグは、同時に母親や、母親から聞かされたカタワレの物語に支配されていました。

 

しかし最終的に舞台にあったのは、ドレスやウィッグを脱ぎ捨て、メイクを落とし、トミーやイツハクへの執着を手放し、自分の足で立つヘドウィグの姿でした。

自由の国・アメリカに渡ったヘドウィグが、カタワレの物語から解放され、本当の意味で自由を手にした姿に見えました。

 

自立できない人間にとって、他者との交流は常に命懸けです。
常に転覆と隣り合わせです。
下手に寄り添い合うよりも、それを手放すことで救われるというのは、一つの答えでしょう。

 

最後に客席に向けてヘドウィグから贈られるMidnight Radioは、自由と孤独を手に入れた人間たちへの賛歌のような響きがありました。

 

2-6 逃避と怒り

 

そうしてヘドウィグは、自分のボートに穴が空いていることを認めることができました。

しかし、周りには穴のないボートで生きている人間がいる中、自分には足りない部分があると認めるのは苦しいことです。
他者と比べて自分には不足があるというつらい現実から逃避するために、「これは誰かから奪われたものだ」という幻想を抱くことは大いにあります。

 

ヘドウィグはカタワレに対し、

本当に無理矢理引き剥がされたのかしら?

良いところを全部持ち逃げした?

と疑問を持ちます。

冒頭で歌われるTEAR ME DOWNの"tear down"という動詞は、「引き裂く」の他に「引き剥がす」というニュアンスもあります。

舞台終盤までのヘドウィグは、常に何かに怒りを抱えています。
自分に性的な虐待を行った父親から、愛してくれなかった母親から、自分を捨てたルーサーやトミーから、何かを奪われたという感覚がずっとあったのかもしれません。

 

パラダイスにおいても、奪う・奪われるというのは繰り返し出てくるテーマです。

燃え盛るビルの上で青木が最後に梶に話したのは、カラスと犬の話です。

知ってる?昔カラスは3本足だったんだ。犬も3本足だったんだ。

でもカラスは飛べるから良いけど、犬は3本じゃ歩きづらいよ?
それである時、犬は偉い人にお願いしたんだ。偉い人って神様じゃなくて。
それでその偉い人はどうしたと思う?

カラスの足を1本奪って、犬にあげたんだよ。偉い人って全然偉くないよね!

犬っておしっこする時、後ろ足あげるでしょ?
あれってカラスから貰った足を汚さないようにってことらしいよ。
遠慮することねぇのにな。あんな小狡いヤロウのために。

老人から金を奪い取っているのは詐欺グループである彼らですが、彼らには「奪われたものを奪い返して何が悪い」という感覚があったのでしょう。

梶はそれを研修生たちに「復讐だ」と焚き付けます。

 

赤堀雅秋演じる中年男は、富士山が爆発するという妄想にすがりつきます。
しかしその妄想すらも失いました。
そして、ただ自分が1人で惨めに転覆するくらいなら、できるだけ大勢を巻き込んで復讐してやるとビルに火をつけます。

まさに「無敵の人」です。

 

自分に何かが足りていないという漠然としたモヤモヤは、強い負のエネルギーになります。

先ほど、相手に怒っている間、傷が治っていない間は、相手を許すことができないという話をしました。

負のエネルギーに満たされた状態で、他人を受け入れることはできません。

そのエネルギーを発散するために、現実から逃避し、架空の敵を作り上げ、自分や周りに怒りとしてぶつけるのです。

 

3 意思疎通

 

3-1 通じることの癒し

 

では、怒りや不安といった負のエネルギーは、自分や他人を傷つけるという方法でしか発散できないのでしょうか?
あるいは、大人しく船の上で揺れが収まるのを待つしかないのでしょうか?

 

現実的で建設的な対応策として、表現するという方法があります。

 

ハザカイキでは、登場人物たちの不満や不安が、言葉として語られました。
橋本香の謝罪会見を筆頭に、自分が相手を傷つけるに至った理由が、自分が傷つくに至った経緯が、論理的に語られます。

もしかすると、その理屈は正しいものではないのかもしれません。

伸二の語る「ゲイであることを笑い飛ばしてほしい」という言葉は、ただ大好きな菅原の言動を肯定したいだけのようにも思えました。

「性欲にまみれていると言ってくれた方が信用できた」という理屈は、結局里美を否定したいだけなのかもしれません。

しかし、それが事実であろうとなかろうと、もっともらしい理屈は自分や他人を安心させます。

 

話し手の表現力も重要ですが、聞き手の理解力も重要です。

ハザカイキに出てくるキャラクターたちは、とても理解力と共感力に長けていました。

橋本香の謝罪会見に対し、無遠慮に質問をぶつける記者は1人もいませんでした。
みな橋本香の気持ちを、訴えをきちんと聞いて、きちんと理解していました。

また、里美が菅原に謝罪するシーンでも、菅原が里美に何度も「わかるよ」と言っていたのが印象的でした。

 

誰かに伝えられる、誰かが理解してくれる、それは強い負の感情をなだめる力を持ちます。

 

3-2 伝えられない人々

 

相手にきちんと自分の感情を伝えることの重要性は先ほど述べました。

では、ハザカイキにおける登場人物たちが自分の気持ちを上手く伝えられるのは、彼らが努力したからなのでしょうか?彼らが人間的に優れていたからなのでしょうか?

 

上手く言葉を使うためには、義務教育、いや、それに加えて高等教育を受けていることは大前提です。
教育を受ける機会に恵まれたとしても、発達障害や識字障害があるとなかなか難しいでしょう。
日本語を母語としている、あるいは母語レベルに習熟していることも必須条件です。

世の中の何割の人間がここに入れるのでしょうか? 

 

パラダイスに登場する人物たちのほとんどは、常に何か怒りを抱えているように見えます。

舞台は梶が遅刻してきた研修生・原田に教育と称して暴力を振るうシーンから始まります。
また、梶は若林に対しても怒りを露わにして殴りかかる場面があります。

 

梶はかなり言葉下手だと思います。

彼が最初に語った「生まれた時から罰を受けている」という感覚は、若林に「正直よく分かんないっす」と言われてしまいます。
私も元ネタを読んである程度理解できたつもりではありますが、梶のセリフではあまりにも大事な部分が抜け落ちすぎていました。

瀕死の真鍋に梶が語った「実家の排水口からニラが腐った匂いがする」という話も、なんとも的を得ないものでした。
梶が何かに苦しんでいて、それを理解してもらえないことにさらに苦しんでいることは分かりましたが、結局何がそこまで彼を追い詰めたのかは、推測することしかできません。
不憫ですが、それじゃ姉に伝わらなくてもしょうがないだろと若干思ってしまいます。

また、梶は父親と2人きりになった時に、「あのさ」「俺さ」と2回何かを言いかけますが、父親に遮られて伝えることができませんでした。

 

真鍋は主要な登場人物のわりに、かなりセリフ量が少ないです。

それはもしかすると、彼が死に際に言った「 俺日本人大嫌いだったんで、結構痛快でした」というのと関係するのかもしれません。

梶に「足洗え」と言われた真鍋は、泣きながら電話を切ります。

瀕死の真鍋は「梶さん。いや、なんでもないです。ただの寝言です」と言いかけたことを誤魔化します。
梶と真鍋は劇中で何十回とアイコンタクトを取り、ひそかに笑い合っていましたが、そこにほとんど言葉はありませんでした。
もちろん言葉なしに伝わる部分もたくさんあったと思うのですが、死に際に思い出すような大事なことが伝えられていなかったのかもしれません。

 

辺見は梶に「お前のこと好きだから」「俺はお前のためを思って」などと口にはしていましたが、梶にはきちんと伝わっていなかったように思います。
その後に辺見が梶に対して取った行動は、実家を使って脅す、猫を殺す、真鍋を殺すなど、間違っても好意を伝えられるような行動ではありませんでした。

 

ビルを放火した中年男は、医者に自分の病気を認めてもらえなかったことに対する怒りを繰り返し語ります。
その怒りは姉や医者に実家の匂いのことを取り合ってもらえなかった梶の苦しみと、リンクしているように見えました。

 

彼らの伝えられない・伝わらないもどかしさは、強い負のエネルギーとして、暴力という形で表現されてしまったのだと思います。

彼らのやりとりはどこか、言葉で感情を上手く表現できない子供が、大声を出したり泣いたり叩いたりする様子に似ているように思えました。

 

マシーン日記におけるミチオやアキトシの言動は、とにかくめちゃくちゃでした。
高卒のアキトシとミチオ、中卒のサチコ、彼らの稚拙さとかバカバカしさは、舞台の外から見ればエンターテインメントでしたが、彼らにとっては深刻な問題だったのかもしれません。

アキトシやミチオが自分の苛立ちや不安を言語化できたか?と考えると、恐らくできなかったのではないでしょうか?

6本の指を持つことで社会から排除され、父親から監禁されたことがあり、弟のミチオやサチコを自分の手元に縛りつけるアキトシは、自分の怒りや不安を理解できていたのでしょうか?
アキトシが学力でも身体能力でもアキトシを上回るケイコを前にして抱いた不安や危機感は、処理されないままにアキトシを躁状態へと掻き立てたのではないでしょうか?

そんな暴走していくアキトシを見て、サチコとミチオは「ここんとこまたコレだな」と共通のジェスチャーで笑い合います。
もちろんアキトシに聞かれるとマズイという思いもあったと思いますが、彼らも現状を正しく表現することができなかったのかもしれません。

 

ボートに穴が空いていても、自分を表現することに長けていれば、その痛みや不安を癒すことができます。

自分を表現することが下手でも、安定したボートがあれば、さして困ることはないかもしれません。

 

しかし残念ながら、伝える能力を身につけるための材料と、安定したボートの材料は似ています。

そのため、安定したボートもなければ、伝える能力もないという状況が往々にしてあり得るのです。

 

3-3 言葉と芸術

 

一方でヘドウィグは常に怒りを抱えていましたが、彼女にはそれを表現する手段がありました。

 

ヘドウィグにはまず言葉がありました。

大学で哲学を専攻していた話があることから、それなりの高等教育を受けていたのでしょう。
彼女の生い立ちの話は、非常にユーモラスで分かりやすいものでした。
多くの観客は、彼女の言いたいことに耳を傾け、内容を理解し、共感しました。

 

彼女がコンサートを通して自分を肯定することができたのは、そのコンサートの中で自分の生い立ちやトミーについて、観客に語ったことが大きかったのだと思います。

言葉を使ってモヤモヤを外に吐き出したことで、自分の感情を客観視することができ、手放せたのかもしれません。

 

また、何よりヘドウィグには音楽という強い自己表現の手段がありました。

ヘドウィグが音楽を「最初に愛したもの」と称した通り、彼女の苦しみは、音楽で表現することで大きく救われていたのでしょう。 

 

音楽や絵画、ダンス、そして演劇などの芸術は、負のエネルギーを昇華する手段となります。

それは時に「言葉なしに」とか「言葉以上に」とか「言語の壁を超えて」という枕詞で賞賛されます。

それらの褒め言葉は、逆説的に、言葉が最も重要な伝達手段であることを示唆しているように思えます。
言葉というのは、何かを正確に、論理的に伝えるために、最も適したツールだと思います。
そのため、音楽や小説、漫画、演劇など、様々な芸術手段に言葉が欠かせません。

なぜ言葉がそれほどまでに何かを伝えているのに適しているかというと、言葉は規則性を持つからです。
「リンゴ」というのは赤く丸く甘い果物であり、「赤」というのは長い波長の光がもたらす視覚刺激です。
しかし、言葉があまりにも膨大な情報量と規則性を持つがゆえに、前提知識が必要なのです。
言葉を使って何かを話したり、聞いたりすることは、言葉の持つ規則性を学んだことがあるというのが前提条件となります。

それらの前提条件がきちんと揃っているというのは、とても恵まれていることだと思います。

 

ハザカイキに登場する人物たちは、みんな話すのも聞くのも上手でした。
きちんと感情(特に負の感情)を言語化できるだけの素養がありました。
それによって、彼らは痛みを許し、受け入れられた部分が大きいと思います。

 

最も苦しいのは苦しいことそれ自体ではなく、苦しいことを伝えられないこと、伝わらないこと、表現できないことなのかもしれません。

 

4 ハザカイキにあったもの

 

ハザカイキには、依存や支配とは無縁の、お互いを許し合って受け入れ合う人々の姿がありました。
彼らには、他者に依存せずに自立することのできる安定した土台と、自分の気持ちを表現し、相手の気持ちを理解できるだけの言葉の素養がありました。

 

人間関係には当たり前のように依存や支配が存在すると思っていた私からすれば、ハザカイキには、新鮮な気づきがありました。

人間同士の距離の取り方や、負の感情を発散する上での言葉の重要性に、初めてきちんと関心を向けました。
そのことで、マシーン日記やヘドウィグ、パラダイスなど、今まで私が好きだと思った舞台に対する解像度が一気に上がった感覚があります。

 

ハザカイキを観るまで、ヘドウィグのラストで示される希望の意味について考えてもいませんでした。
ありのままの姿で"Midnight Radio"を客席に届けるヘドウィグの姿は、美しくて、圧倒されて、救われて、そのままにしていました。

しかし、ヘドウィグのラストに飲み込まれ、ハザカイキのラストに吐き出された私は、ヘドウィグの物語で示された救いについて考える時が来ました。

ヘドウィグのヘドウィグ・シュビット(=母親) からの解放という点にはなんとなく気づいていましたが、それに加えてイツハクへの支配、トミーへの依存、ルーサーや父親への怒り、そしてカタワレの幻想からの解放があったことにようやく思い至りました。

 

パラダイスでは、ハザカイキの菅原と同じように、梶浩一を中心とした三角関係がありました。
しかし、ハザカイキでは三角関係が穏当に維持されたのに対し、パラダイスでは全員が死亡したという意味でも、文字通り跡形もなく崩れ去りました。

  • 梶と辺見と真鍋の三者間の依存関係
  • 社会の格差と格差

パラダイスを観た当時は、この2つを切り分けて考えていましたが、今思うとどちらも穴の空いたボートの問題が根本にあったのではないかと思います。

そして彼らは、社会や自分の現状への苛立ちといった負の感情も、誰かのことを大切に思う正の感情も、きちんと伝えられないままに苦しんでいたのかもしれません。

 

そう考えるとやはり、ハザカイキで描かれたのは"普通の人"ではないと思います。
彼らはとても恵まれた場所に生まれ育ち、だから最後には誰かと許し合って生きていくという特権を得られたんだよね?と思ってしまいます。

 

ハザカイキの公演プログラムに、今回の脚本・演出である三浦大輔さんに対するインタビューがありました。

執筆時に特に気をつけていたのは、登場するすべての人たちを肯定しようということ。
罪を犯したり誰かを傷つけた人を肯定しようというのではもちろんありません。

ありふれた考えかもしれませんが、誰かが何か誤った選択をしてしまうその過程を嘘なく描けば、その存在まで否定されることはないはず。
つまり、善悪を明確に分けることは避けようと。

善悪を明確に分けることを避けようとしているにもかかわらず、罪を犯したり誰かを傷つけた人のことは切り捨てていることに違和感がありました。

私は鑑賞後にこのインタビューを読んだ時に、閃光ばなしに出てきたセリフを咄嗟に思い出しました。

みんなのため?そのみんなの中に私は入ってなかったってことでしょ。

白渡由乃

ハザカイキに描かれた「すべての人」に、全ての善人の中に、私は入っていなかったんだと思いました。

そして、ミチオ、アキトシ、梶、辺見、真鍋、ヘドウィグ、私が今まで観てきた舞台にいたたくさんの人物たちが、そこに入っていないと感じました。

私がハザカイキを見て思ったのは、そういう疎外感だったのだと思います。

 

5 あとがき

 

閃光ばなしのパンフレットに、もう一つ今になって私の琴線に触れた言葉がありました。

「どうしてこの作品を作ろうと思ったのですか?」と聞かれることが多いです。

その時、いつも思い浮かぶけど「まぁ、ここで言うことじゃないか」と飲み込む言葉がありまして、それが「イライラするから」

脚本・演出 福原充則

正直このブログを書き始めた時は、きっと梶やアキトシと同じように、イライラ、モヤモヤしていて、負のエネルギーを有り余らせていました。
もっとこう、「物申してやる!」みたいな感じで、肩ぶん回して書いていました。
実はもう3回も書き直しているのですが、最初に書き出した文章は、お見せできないくらいネチネチと嫌味ったらしく、まどろっこしいものでした。

ちなみに、このブログの分析記事以外の過去記事は、大半がイライラしながら書いています(笑)

 

しかし、何度も読み返して書き直してを繰り返している間に、徐々に悟ったような穏やかな気持ちになり、このあとがきまで辿り着いた次第です。

 

元々私は、2章で書いたボートの話がしたかったのです。 あいつら恵まれてるよね?あいつら運が良いだけだよね?ずるいよね?って、誰かに共感してもらいたくて。

でも、その話を書いている内に、自分がそのモヤモヤを言語化することで救われていることに気がつきました。

 

恐らくハザカイキの登場人物たちがそうであったように、多くの人は自分が元々持っているものには無関心です。
ほとんどの日本人は、海外旅行に行かない限り、清潔で高機能な公衆トイレに感謝することはないでしょう。

それと同様に、私は自分の気持ちを言葉で表現することができるという状況に、今までかなり無関心でした。
また、多くの舞台を作る人々は、私なんかよりもさらに言葉で表現する能力に優れています。
だからどうしても、言葉という表現手段を持つことが当たり前になってしまうんですね。
語られない苦しみよりも、語られる苦しみに関心が行ってしまう。

 

今回語られない苦しみというものを初めて言語化することで、少し世界の見え方が変わった気がします。

分かった気になっているだけかもしれませんが、今まで観てきた舞台の「語られないもの」に目が向くようになりました。

 

私自身は、自分の中にある漠然とした苦しみや痛みを言語化することで、自分の内部にあるものではなく、外部にあるものとして扱えるようになるという感覚があります。

モヤモヤが私の中にある間は、モヤモヤがあること自体も苦しいですが、それが小さいのか大きいのか、これで終わりなのか、まだ続くのか、何が原因なのか、それが分からないことも苦しいのです。
だから言語を通して自分の外側に痛みを描き出すことで、客観的に見て、触れて、分かることができます。
そして「自分の中にあるもの」ではなく「自分の中にあったもの」として、自分から切り離し、過去のものにできる気がします。

同じ痛みを抱えた人間同士が集まって話す自助グループも、自分と同じような苦しみを語る他人を見ることで、苦しみを外部化する、そういう役割があるのかもしれません。

実際、ハザカイキを観た直後は「なんか違う」というような漠然としたモヤモヤだったのが、きちんと言語化されて成仏したような感覚があります。

 

私にとって舞台は、私の中にわだかまっている負の感情を外部化してくれるヒントになります。

今回のブログでは何度も登場人物たちのセリフを引用しましたが、彼らの言葉は私の耳に残り、脳に刻まれ、今も私の血となり肉となっています。

私の中に残った彼らの言葉は、私が感じたモヤモヤを言語化することを何度も助けてくれました。
今回はそれが、ボートの穴と言語化の話でした。

 

私自身のボートには不運なことに小さな穴が空いています。

私がラッキーだったのは、舞台を通して様々な人々のボートに空いた穴を見られたことです。
他人の穴と比較することで、自分のボートの穴の場所や大きさについて朧げにでも把握することができたことです。
私がこうして舞台で描かれる内容をある程度理解し、そこに生じた自分の気持ちを言語にする力を持っていたことです。
言語化するきっかけとなる舞台を鑑賞できるだけの健康な肉体、十分な視力や聴力、チケット代を捻出する経済力を持っていたことです。

 

私の住む世界と、ハザカイキと、パラダイスと、ヘドウィグと、マシーン日記を分け隔てているのは、いくつかの幸運といくつかの不運の積み重なりです。
私はどうやら、ハザカイキに描かれた彼らよりはいくらか不運が多く、その他3作品に描かれた彼らよりはいくらか幸運が多かったようです。

だから単純に言うと、ハザカイキに出てくる登場人物が、ハザカイキのような作品を描ける感覚が、妬ましかったのかもしれません。

 

6 参考