アイドルという信仰形態
<今までの想定>
ファン -「愛」→ 関ジャニ∞
<現在の推測>
ファン -「愛」→ 関ジャニ∞ ←「愛」- 5人
この図式が、この記事に私が今から書くことである。
ここ最近の関ジャニ∞を推していて感じたのは、愛はファンから関ジャニ∞への一方通行ではなかったのではないか、ということだ。
ファンというのは一方的にアイドルを応援するもので、アイドルというのはそれを支えに活動するもの、そういうものだと思っていた。
しかし最近感じるのは、関ジャニ∞からファンへの愛。
愛という言葉の定義が難しいが、この記事では「愛」というものを、応援や尊敬や崇拝やリア恋や性欲や、様々な形はあれど、そのアイドルに抱く強いプラスの感情ということにしておこう。
たびたび、アイドルと宗教の共通性を考える。
これはさして珍しい視点でもないと思う。
多神教とか無節操とか色々言われる日本人の信仰だが、そこに死んだ人間が加えられるのと同様に、生きている人間が加えられても不思議ではない。
大体、人間というのが何かしらを全く崇めることなく生きていくのは非常に稀である。
多かれ少なかれ、誰しも何らかの不確かなことを信じていないと生きていけないのだ。
神の形は、一般的に2種類あると考えられている。
説明の神と救いの神だ。
前者はこの世の説明の付かない事象について理由付けをくれる。いわゆる創造神と呼ばれるものだ。ちなみに日本の神道における神はこのような役割は持っていない。世界は神が登場したときにはすでに世界はできていた。
特にこれは科学が成立する以前は、宗教における大きな役割だった。宗教は、教育という側面もあったのかもしない。
天災や病気、人間に降りかかる巨大な災難にも(科学的な真偽は別として)確かと思われる理由を神は与えてくれたのだ。
人間は、とりあえず理由を与えられると安心する生き物である。
神役割としては、後者、救いの神の方が馴染み深いだろうか。
なにか深い苦しみがやってきたときに、私たちを救ってくれる、あの神だ。
さて、話は関ジャニ∞に戻る。
私は関ジャニ∞をカミだと思っていた。
正確な意味の「神」とは少し違うかもしれないが、確かに私は関ジャニ∞、村上信五に愛を抱き、信仰し、救われていたのだ。
間違いなく彼らは私の救いの神だった。
ただし、生身の人間である。
生身の人間を信仰対象とすること自体は不可能ではないだろう。
しかしそれは、信仰される側にとてつもなく大きな負担を与えるもので、罪深いものであると私は考えている。
今の関ジャニ∞は、かつてよりもさらに生身の人間らしいような気がする。
彼らは「最高で最強」になろうとしたが、「最低で最弱」な部分を隠しきれなかったのだ。
彼らをカミだと思っていた。
過去形なのは、今はそう思っていないからだ。
だが、アイドルとファンの間に宗教的な信仰に似たなんらかの関係が存在しているという考えは変わっていない。
私は最初に書いた通り、ファンというものは、アイドルに一方的な愛を送っている存在だと思っていた。
しかし、関ジャニ∞は想像以上にファンに向けて愛を感じていた、と考えている。
安田さんのグッドナイト関ジャーニーの「All is well」の弾き語りを聞いた後に、私はこれを書いている。
村上さんは関ジャニ∞を「お天道様」に喩えた。
お天道様と神というのは、かなり近い存在だと感じる。
ここで一つ小話を。
ニーチェの「神は死んだ」という言葉は、かなり有名なので、聞いたことくらいはあるのではないだろうか。
そこには様々な解釈がある。
一つの解釈を軽く紹介しておこう。
まず、日本人にとってヨーロッパというのは、日本に比べると"きちんと"宗教を信仰している国だというイメージがあるかもしれない。
しかし実際に敬虔な信者というのは、日本における仏教の敬虔な信者くらいの割合だという。
ほとんどの人は、なんとなくで初詣に行くように、なんとなく教会で祈りを捧げるのだ。
ニーチェの生きた時代でも、「神は死んだ」と言われて激怒する人は、それほど多くなかったし、実際ニーチェは断頭台に送られることも、牢獄の中に閉じ込められることもなかった。
地動説を唱えて投獄されたガリレオの時代と比べれば、随分最近の、つい100年ほど前の話である。
その頃には、無心論者と言われるような科学主義者もかなり居た。ニーチェが「神は死んだ」という言葉が収録された『悦ばしき学問」を書いたのは、産業革命後の19世紀後半だ。
科学主義者たちに向かって、ニーチェは「神は死んだ」と言ったのだ。ニーチェは無心論者ではない。
科学の台頭によって、「創造の神」を必要としなくなった人間は、神を信じなくなった。
しかし、「救いの神」を人間は、どうやっても必要とする。そこには神に似た別の何かがまた新たに様々登場した。
先ほど宗教には教育的な面が存在するのではないかという話をしたが、それは道徳の形成という形で最もよく現れていると感じる。
ヨーロッパの大半の道徳というものは、キリスト教の考えが元になっている。日本の道徳だって、仏教や神道の考えが深く根付いている。
神と道徳を切り離すことはできない。
つまり、科学を信仰し、創造の神を殺す、つまりキリスト教の信仰が薄れることは、ヨーロッパにおいて脈々と無意識レベルに刻み込まれてきた、キリスト教道徳の崩壊を意味する。
というのが、一つの仮説だ。
まぁ長々と説明したが、この「宗教によって成り立つ道徳」というものは、「お天道様」の考えにかなり近い。
そして、私の人生に疲れ果てていた時期を救ったのは、間違いなく救いの神だ。
<今までの想定>
ファン -「愛」→ 関ジャニ∞
<現在の推測>
ファン -「愛」→ 関ジャニ∞ ←「愛」- 5人
つまり、ファンが一方的に関ジャニ∞(この場合は生身の人間含む)を愛していたのではなく、ファンと5人が、関ジャニ∞という概念を通して、それぞれが双方向に愛(≒信仰)を向けていたのではないか、というのが私の仮説である。
例えるなら、ファンは関ジャニ∞の実像を見ていたのではない。
5人とファンが仕切られた空間に入れられていて、大きな鏡が天井にあるのを想像して欲しい。
私たちが見上げると、鏡には向こうにいる5人の姿が見える。横山裕、村上信五、丸山隆平、安田章大、大倉忠義、その姿が実像と見間違うほどに遜色なくリアルに映っているように見える。
その時、5人が見上げた鏡の中にもファンが写っているのだ。
ファンと5人は、関ジャニ∞という鏡、鏡像、媒体を通して、お互いを見ているような錯覚に陥る。
これはアイドル側からの愛を想定すると分かりやすいかもしれない。
アイドルが歌う。
「愛してる、届かなくても」
この時、ファンは「まさに自分に歌っている」と思うだろうか?
恐らくほとんどの人は、私を含んだ"ファン"という概念に向けて歌っている、と感じるのではないだろうか。
つまり、5人が見ているファンというのは、実像ではない。ただし実像の姿をかなりの精度で映し出している。5人の姿は鏡像に間違いなく反映される。
アイドルも同じように感じているかもしれない。
「関ジャニ∞のファンです」
それは確実に自分を含んだ"関ジャニ∞"のことを指しているのだが、自分自身のことをまさに「好き」だと言っているとは感じていないのではないかと思えることが多々ある。
それはまさに私たちが「私を含んだ"ファン"という概念」に向けての言葉だと感じたように。
時々「本当にこの人は同担なのだろうか?」と思うくらい、見えている関ジャニ∞像が違うことがある。いわゆる解釈違いだ。
恐らく、ここで「本当の関ジャニ∞」「本当の自担」について話し合うのは無意味だ。
私たちは永遠に分かり合えないし、そこに絶対的な答えは存在していない。どっちかが間違っていて、どっちかが正しいと白黒つけることは限りなく不可能に近い。
私の仮定で言えば、なぜならそれは私たちは概念としての推しについて話し合ってるからであり、実像が直接見えていない以上、どちらの見え方が正しいかということを決めるのに意味はない。
アイドルは鏡に写る像のようなものだ、という話をすると、ニセモノとか、空虚とか、そういうマイナスイメージが浮かんでしまうかもしれないが、そうではない。
それはうつろなものでは決してないと私は考えている。
何十万人ものファンの思いが、5人の思いが、8人の思いが、その構造を支える人間の思いが、「関ジャニ∞」という信仰の対象に近い、神のような何かを生み出しているからだ。
そこには間違いなく、血の通った温かい何かがある。
そしてそれは誰かの救いの神になり、お天道様様になり、道徳になり、心の拠り所を、なんらかの目標を、人生の生きる意味を提供するのだ。
そう考えると、ファンを「大事なメンバー」とコンサートで絶対に言う村上さんの言葉がすごくしっくりくる。
「関ジャニ∞」という像の中には、5人もファンも恐らくしっかりと写っている。見る方向が違うと、写す場所が変わるだけで。
直接愛し合うというのは、生々しく、素晴らしく、気持ちよく、面倒くさく、一筋縄ではいかないことである。
正直、私は普通に誰かと恋して、愛して、憎んで、疲れる気力も願望もない。
「関ジャニ∞」を媒介して、村上信五を愛し、関ジャニ∞を愛し、誰かと同じものを共有し、信じることは、適度な距離感があり、とても居心地が良い。
確かに5人はファンを愛しているが、私個人の実像が相手に見えているわけではない。逆も然りだ。それが物凄くちょうどいい。
そんな私の考える仮定なので、恐らく都合の良いものになっている部分もあるのだろう。
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